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旭川・NHKの「ぶらタモリ」を見て歴史と今を想う!

我が懐かしき旭川!

NHKの「ぶらタモリ」で、珍しく旭川が
取り上げられ、旭川の成り立ちや、
札幌に次ぐ道央の拠点都市として、

「北のトップランナー」として、
発展していった歴史を追う番組が
放送され、懐かしく久しぶりに郷愁を
覚えました。

といっても東京生まれの私は子供のころに、
旭川の住人となり数年在住ののち、
今は神奈川県の住人となっています。

ですから、残っている印象としては、
上川盆地に位置している旭川は
冬の寒さは一通りではなく寒く、
夏は暑いという記憶です。

蝦夷梅雨もある今と違い、その頃は
梅雨のない北海道でしたが、6月に30度
近くあり、湿気がなかったので、もろに
日光を浴びた記憶があります。

典型的な内陸性気候で、明治35年1月に、
日本観測史上最低気温となる-41.0度を
記録したとか。

また平成元年8月には旭川(上川地方)
観測史上最高気温となる36度を記録し、
北国のイメージとは程遠い気温に。

本州の家庭とは違い、エアコンの普及も
あまりされていなかったと思うので、
その暑さには閉口したのではないでしょうか。

しかも豪雪地帯で知られるのは、
新潟や青森の酸ヶ湯温泉がありますが、
旭川も後れを取らない大雪地帯です。

ですからセントラルヒーティングで、
家の中は冬期間はずっと暖かく、
どこへ行っても薄着の印象があります。

  灯油代が半端ない!

しかし、いったん外出するとなると、まず車を
雪の中から掘り出す作業で、朝から肩や腰が
痛くなるのです。

ガレージの前には降った雪のほかに、除雪車が
ザーッと雪を集めて、こんもり残していくので、
いつも、市役所に電話して取り除いてもらうと
いった事の繰り返しも印象に残っています。

旭川の歴史

広報「旭川市のあゆみ」によると

上川地方には2万年前頃から人の生活が
始まっている。14世紀前後にアイヌ文化が形成されたが、
上川もその文化の担い手であるアイヌの
人たちの世界であった。明治22年には岩村長官の後任となった
第2代北海道長官永山武四郎の建議に対して、
当時の宮内大臣から総理大臣に
「上川郡のうちに他日一都府を立て、
離宮を設けるよう仰せいだされ候」との宣達が
出されたが、計画は日の目を見ることなく、
歴史の中に消え、今も幻の上川離宮を物語る碑が建っている。

離宮の話があったとは、驚きです。
でも、その頃の旭川では、冬を越すのも
大変でしたでしょうから、立ち消えは
当然かもしれません。

軍都旭川の頑強な旭橋

1904年(明治37年)に石狩川に初代「旭橋」が
架かります。

この橋は軍都だった頃に、旭川第7師団エリアと、
繁華街を結ぶほか、札幌からの物資の流通や
軍関係の重量のある物資を通すために、
48万本のブレット(ビス)が使われたまさに
頑丈な橋で、夏には盛大な花火大会もあり、
その美しさとともに、私たちも旭川のブランドとして、
親しんでいました。

1938年(昭和13年)国策パルプ工業株式会社が、
設立されて旭川の活気もうかがわれます。
現在は日本製紙株式会社となっています。

時がたって永山、神居、鷹栖、東旭川などが、
合併され旭川市として、歩み続けています。

その後、かの有名な旭山動物園、
旭川医科大学(著名な医師がいる)、
スタルヒン球場など、全国に知られる
旭川となりました。

番組によれば、北海道の中央に位置する
旭川が、高い山で分断された土地を
どのように物資を流通させて、第二の都市
にしたかは、

神居古潭の急流や、蛇紋岩といわれる風化
しやすい岩が、深くかかわっていることなど、
普段住人でも触れることのない情報に触れる
機会を得て、改めて旭川の存在の
意義を考えさせられた番組でした。

旭川近郊には、丘の町美瑛やラベンダーの
富良野などの観光地のほか、層雲峡温泉、
天人峡温泉、白銀温泉など、これも一度は
行きたい観光地があり、全国の旅行者が
こぞって訪れる有数の北の町になっています。

北海道観光、ふらの・レンタカードライブと倉本聰監修レストラン「ル・ゴロワ・フラノ」へ

北海道観光・富良野・美瑛~旭山動物園そして 旭川空港へ

天之御中主神様(あめのみなかぬしさま)を祀る旭川ペーパン太田神社

このような先人の歴史を学び、
改めて北の町旭川を
訪れてみたくなりました。

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